最後の木地師 大蔵真

どのような経緯で大蔵製盆を知ったのか、
もはや記憶が定かではないが、
自宅からすぐの場所であったことが話を聞きに行くきっかけだったはずだ。
ナゴヤ球場のご近所、
こんなところで木曽の山奥のように
ろくろを使ってお盆をつくっている親子がいることに驚いた。

そして、木地師という集団が平安時代に生まれて
明治を迎えるまで、木を伐り、ろくろで皿やお盆、椀を挽き
それを生活の糧としながら、山で暮らしていたという歴史にびっくりした。
しかも、木地師の家族は今の核家族と違って
親兄弟親戚すべてが一つの集団となっていたから、
50人から60人が集まって山の中で暮らし、
しばらくすると一緒に移動するといった漂泊の民でもあった。

それが明治以降、多くの木地師は山を降り、
下界へと、一般社会へと降りていくようになる。
最初は、一般社会の中でも、
山と同じように木地師として暮らしている人たちはたくさんいただろうが、
大正、昭和と進む中で、少しずつ減っていき、他の仕事へと転職していった。
そう考えると、今もなお、その末裔の一人が、
名古屋市内で木地師として存在していること自体、奇跡に近い。

大蔵真さんは高校を卒業すると同時に、
父親の仕事である木地師を引き継ぎ、生きていくことを決めた。
ぼくが最初にお話を聞いたときには
お父さんの多喜雄さんと二人でつくっていて、
多喜雄さんからは、
木地師発祥の地とされている滋賀県君ヶ畑の筒井神社が発行した
馬の蹄の音が聞こえる範囲なら木を伐ってもいいよ、
と書かれた許可証を見せてもらったり、
山のふもとで大蔵さんの家族親戚(50人くらい)が
集まったときに撮影した写真を見せてもらって、
「ここに抱っこされているのが自分だよ」と教えてもらったりした。

残念ながら、多喜雄さんは6年ほどまでに亡くなられた。
今は真さん一人で、ろくろを挽き、販売のために全国を飛び回っている。
真さんは大蔵家50代目に当たる木地師である。
家系図もちゃんと残っていて、50代というと、平安時代? となるのかな、
それだけの長い時間をかけて、
多くの木地師がこの技術を受け継いできた先に、真さんがいた。
それを空想するのはちょっと楽しいな。

でも、真さんには、後継者がいない。
おそらく、真さんが大蔵家最後の木地師となる。

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