繊維産業の尾っぽをつかむ

明治から現在までの名古屋という街の変遷を、産業の観点から語っていくシリーズ。
そんなものを、これから始めようかなと思ってね。
といっても、堅苦しい感じではなくて、
なんとなく音楽を聴くような感じで読んでもらえることを目指していくつもりなんだけど。
できるかどうか、うまくいくかどうかはわからないけどさ、、、では、さっそく。

あ、その前に、名古屋といっても、名古屋市内に限定しているわけじゃなくて、
名古屋とその周辺というざっくりとした感じだからね。

で、さっそく私的なことから話しはじめてしまうけど、というのも、
今を生きているぼくらは、ちょっと前のこともすぐに忘れてしまうから、
私的なことから入らないと、なかなか昔をイメージできないからね。

ぼくが社会人としてスタートをしたのは陶磁器産業で、
そのときは、あまり発展性のない産業だなあという印象を持っていた。
今から思うと、まあ、実際、その通りなんだけど、
でも、ぼくが働いていたのは、まだ食器やタイルが今よりもずっと盛んにつくられていた時代だった。
それにね、陶器(ぼくはどうも陶磁器という呼び方が好きじゃなくて、これからは陶器と呼ぶことにする)は、
この地域にとって特別な存在だなと、今は改めて感じている。

そのへんはおいおい書いていくとして、なんといっても、まずはやっぱり、繊維産業でしょ。
でもさあ、繊維産業って、なんかわかりづらいんだよなあ。
なぜかというと、ぼくが肌感覚として実感できないから。
いろんな数字を見せられて、近代工業化は繊維産業から始まっていったというのはわかるけど、
イメージできないんだよなあ。これはまったく個人の問題だと思うけど、
大切なのはイメージだから。

そこで、まずは、ぼくの頭の中に残っている繊維産業に関わることを拾い集めていって、
なんとか繊維産業の尾っぽをつかんで、仲良しになりたいなあと思ってさ。
ぼくがフリーランスになって、愛知県江南市の情報誌をつくっていたころの話。
江南市の商店街をぶらぶら歩いて話を聞いていたら、ひとりのおばあさんが、
昔は近くに紡績工場があって、この商店街も女工さんであふれていたもんだよ、
と、ぽつりと言ったんだよ。
その江南の商店街が、またレトロでさあ。道沿いに古めかしい街灯が並んで、
そこにプラスチックの造花が飾ってあったりして、建物もまさに昭和な感じで。
ぼくの頭の中は、道にあふれる女工さんのイメージが一気に広がったんだ。
ああ、そういう感じ、うん、みんなが笑顔で、この道をぶらぶら歩いていたんだな。
たぶん、おばあさんが言った紡績工場は、
大坂の紡績会社である敷島紡績(今のシキボウ)の江南工場のことだね。
今もシキボウ江南という名前で事業を継続しているけど、工場の規模はかなり縮小、
かつての広い工場の敷地は、アピタ江南西店や住宅街になったみたいだ。

昔は工場の社宅もあったみたいだから、かなり大きな工場だったんだね。
ちなみに、敷島紡績江南工場は1958年に設立されて、2000人くらいが働いていたようだ。
シキボウ江南は160人くらいだから、昔は、今の13倍くらいの人が働いていたんだなあ。

ぼくは、このとき、ちょうど日本が高度成長していた時代の雰囲気が少しだけ感じられたような気がしたんだ。

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