ちょっと訳が分からないかもしれないけれども、
ぼく自身のメモ的な意味合いとして、
ここに書き残しておきたいと思って、、、
明治から昭和にかけて生きた西田幾多郎という哲学者がいた、
西田幾多郎さんが明治44年に出した「善の研究」という著書の序文に、
次のような箇所がある、
個人あって経験あるにあらず、
経験あって個人あるのである、
個人的区別より経験が根本的であるという考から
独我論を脱することができ、、、
とくに難しい言葉を使っているわけではないから、
説明は必要ないかもしれないけれども、
つまり、
私という個人が経験よりも先にあるのではなく、
経験が先にあって、そこから私という個人が抽出された、
という感じかなあ、、
よけいわからないかもしれない、、、
モノが先にあって、コトが起こるのではなく、
コトが先にあって、そこからモノが生まれた、
という感じか、、、、
その考えによって、
独我論、つまり個人主義を克服することができた、
と、西田幾多郎さんは言っている、、、
いまは、
個人の自由を最大限に発揮することが
幸せにつながると思っている、
モノを見つめていく科学を誰もが信じ、
それを前提とした認識の上に世界が成り立っている、
だけど、
それは経験とかコトを、
少し軽視しているのではないか、、、、
もちろん、ぼくの考えなんて、
そんなに深くはないけれども、
ギャラリーをやったり、
このホームページを運営したりしているのは、
また、kinjoという言葉に込めたのは、
西田幾多郎さんの哲学と重なるところがある、
と、ぼくは勝手に思っている、、、