安保闘争が起きて、所得倍増計画が進み、カラーテレビ放送が始まった1960年、
東京でキャンティというイタリア料理の店がオープンした、、
その店は、日本人がはじめた黎明期のイタリア料理の専門店というだけでなく、、
昭和の芸術や芸能、風俗の歴史に決定的な足跡を残した店である、、
三島由紀夫、岡本太郎といった文学者や画家だけでなく、少し後の時代になると、、、
加賀まりこ、安井かずみ、荒井由実(松任谷由実)といった時代の寵児たちが集まる、
最新のトレンドや情報が行き交う「メディア」のような場所になっていったのである、、
その東京のキャンティの姉妹店として、、
1971年に松坂屋本店新館8階にオープンしたのが、、名古屋のキャンティである、、
そこは当時の名古屋の文化人や財界人が集まる社交場・レストランとして機能していただけでなく、
のちに東海地方で名店を開くイタリアンシェフたちの修業先でもあった、、
その名古屋のキャンティで修業を積んのが、
本郷駅の近くのイタリアン店「月とスウィング」のシェフである永田淳司さんである、、
永田さんは名古屋のキャンティでイタリア料理を学び、その後、
覚王山で「月とスウィング」というイタリアンの店をはじめた、、
その店は2010年に閉店してしまったが、
15年の時を経て本郷で復活を果たした、、
昨年、永田さんが本郷で「月とスウィング」を再スタートしたのは
ちょうど70歳の時である、、
70歳で新たな挑戦ができるなんて、、素晴らしい、、、
そんな永田さんと、美味しいパスタを食べながら雑談してきた、、
文・写真 小出朝生

70歳からの再出発
永田 覚王山で店をやっていて、、2010年に閉店して、去年、15年ぶりにここで再開したんです、、
――70歳の挑戦って、、すごいです、、
永田 仕事がないからです、、、食っていけないので、、それまで知り合いのお店とか、アルバイト的にやってたんですけど、、いろいろ点々と、コックとしてやったりしてました、、、
で、人に使われるのが好きじゃないんで、ある時、ちょっと縁があって、あちこちで間借りで店をやるようになったんです、、
この場所も、間借りで店をはじめて、、、1年が経過したから、、正式にオープンできるかなと思って、、、今に至るわけです、、
コックの仕事って、ある年齢を境にどんどんなくなってくるんですよ、、雇ってもらえない、、仕事ができるとかできないとか関係なく、経営者に嫌がられるんですよね、、
――じゃあ自分でやろうみたいな感じですか、、
永田 自分でやるしかないなっていうか、、食っていくにはそれしかないし、、
――覚王山のお店はどのくらい続いたんですか?
永田 17年やりました、、40歳くらいに始めた店です、、
――東京の老舗イタリアンのキャンティの姉妹店が名古屋のにもあったんですね、そこに勤められていた聞きました、、
永田 今はなくなっちゃったけどね、、

料理の腕ではもちろんだけれども、、考え方もすごく柔軟で驚く、、
――キャンティが料理の世界に入る一番最初でしたか?
永田 いや、違います。「メゾン」っていう洋食屋さんがあったんですよ、、そこが最初ですね、、
その時代、洋食屋さんはあったけど、本格的なフレンチとかイタリアンの店はまだなかったんです、、、桜通りにホテルオークラのレストラン(1966年開業)があって、本格的なフレンチは、そこぐらいですね、、、
あとは「ザンビ」(名古屋の老舗フレンチ「レストラン ザンビ」の開業は、戦後間もない1948年)とかね、、ザンビは戦後からある店で、、、
イタリアンの店は、その頃はキャンティしかないから、
――そうか、その時代、まだ名古屋にイタリアンって名乗ってるような店はほかになかったんですね、、
永田 黎明期ですね、、、洋食屋さんの次は、プライムリブ&ステーキ ガリバーというステーキハウスで働いたんです、、当時は、1970年の大阪万博以降、外食が盛んになりだす時期で、もうなんかすごい忙しかったですよ、、
――外食がちょっとステータスになってくる頃ですね、、
永田 フレンチ、ビストロ、イタリアン、中華料理とか、、1970年代以降、そういう専門店が出始めた頃ですね、、


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