
バブルの頃はカフェバーで料理をつくった
――キャンティの後は?
永田 キャンティの人に紹介してもらった店とか、ヘラルドが経営していたカフェバーなどで働きました、、ちょうどバブルになるかならないかぐらいの頃でした、、、すごい忙しい店で、朝10時から夜中の3時まで、シェフとして働きました、、休むことなく無休の店だったんですよ、、でも給料めちゃめちゃもらえました、、カフェだからそんなに大した料理はなかったんですけど、、
――永田さんがイタリア料理の基本的な技術を覚えたのはどこですか?
永田 キャンティです、パスタもそうだし、、お菓子もつくったし、
多分今の若い子と比べると、つくるのはメチャメチャ早いです、、今、すごく忙しい時代を経験したことある人なんかいないから、、、バブルとか、黎明期の忙しい時代も経験してるので、、
――バブルの頃って忙しそうですね、、
永田 バブルの真っ最中の頃、働いていたカフェバーでは、100席ぐらいの店で、1日夜だけで1回転半ぐらい、週末だと2回転してる、、そのころは、洋食みたいなのもあるし、ちょっとスナック系のもあるし、まあいろいろやってて、、、
そろそろ自分の店をやりたいなと思ってたんですけど、、、キャンティの支配人のところへ顔を出すと、また、キャンティで働くことになって、、、そのうち、覚王山の店の話があって、始めたわけですけど、、
――覚王山の「月とスウィング」は、本格的なイタリアンのメニューで始めたんですか?
永田 いや、最初は簡単なメニューで、、だんだんメニューが増えていって、、、、
――永田さん、そもそも飲食店の世界に入ろうと思ったきっかけは?
永田 中学出た時、デザインみたいなのをやりたい、絵を描きたかったりしたんで、そういうデザイン系か美術系の高校に行きたいって言ったんですよ、、でも学校が許してくれなくて、、
どうしようかなって思ったら、うちの親父の知り合いで、コック業をしてた方が料理学校をやっていて、、まあしょうがないから、、
――すごい料理に興味があったとか、そういうことではなかったんですね、
永田 でも料理をつくることは好きだったんです、、僕が小学校の頃、母が働きに行ってたから、だいたい自分でご飯をつくるんですけど、、、
7、8歳ぐらいの時に思いついてつくっていた料理があって、納豆のオムレツっていう、、
後年、山ちゃんのお店に行った時に「納豆オムレツ」ってメニューがあって、「これは俺、子供の頃考えてたやつだ」と思ったんですよ、、

名古屋の外食の移り変わりを中から見てきた貴重な証人である、、
つくっているときは、いつも楽しい
――自分でお店をやられてた時ってどうでしたか?
永田 人に使われるの嫌だなと思ったんですけど、やってみたら人に使われてた方が良かったなと思いました、、だって給料も出ないし、きついですもん、、普通に働くよりも何倍も働かなきゃいけないんですよ、終わりがないし、、ただ、指図はされない、自分の思い通りにできる、、それはいいですけど、それだけですよね、、
やってる間は楽しいんだけど、金銭的には美味しくないです、
つくってる間はいつでも楽しいですよ、、美味しいって言っていただければ、ありがたいなと思います、、
1ヶ月くらい前、ある歌手の方に来店いただいたんですけど、覚王山のころから名古屋で仕事があると寄ってくれていて、、こちらに移ってからも、仕事があるからって言って来てくれたんですけど、、、別に有名人だからってわけじゃなくて、そういう人が気さくに来てくれるというのが、ありがたいなと思います、、「全然変わらないね」って言ってくれて、それは嬉しいですね、、
――嬉しいですね、
永田 長年、ファンだった女優の方にも、覚王山の店に来店いただいたことがあるんです、、知人の方が連れてきてくれたんですけど、、
――不思議な縁ですね、、
永田 自分がファンだった人が店に来てくれることがうれしい、、誰かが紹介してくれたにしても、良い店じゃなかったら紹介してくれないじゃないですか、、
ありがたいなと思いますよ、、会いたいなと思ってる人に会えて、、、

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