鈴木バイオリンが大府に帰ってきた!

久しぶりにカメラマンの筒井さんと一緒に取材に行ってきた。

鈴木バイオリン製造
数年前まで、ぼくの家の近くにあって、何度も工場見学をさせてもらった、
日本で最初にバイオリンを量産した歴史あるものづくりの会社である、

ちょうどぼくが「手の仕事」という雑誌をつくっているころで、
谷口工場長には、何度も、ていねいに工場を案内していただいて、
大変お世話になった、

その鈴木バイオリン製造の工場が、いつの間にか移転してしまって、、
名古屋市千種区へ移ったという情報を得て、
一度調べに行ったことがあったが見つけることができなかった、、
そしたら、その後、愛知県大府市へ移転してることがわかった、、

あの鈴木バイオリン製造が、現在はどんな感じになっているのか、
これは絶対に見学しに行くしかない、と思った、、

鈴木バイオリンの看板
鈴木バイオリンの本社
鈴木バイオリンのかざり
鈴木バイオリンのかざり

レストランを改装した大府の鈴木バイオリン製造の本社。学校や個人の親子連れによる見学を積極的に受け入れ、大府市と協力してバイオリンの音色が響くまちづくりの一端を担っている

あまり知られていないけれども、名古屋の周辺は楽器づくりが盛んな場所である、
アコースティックギター、エレキギター、ドラム、チェンバロ、そしてバイオリン、
そうした楽器づくりの土壌が培われた一つの要因に、鈴木バイオリンの存在があったのではないだろうか、、

創業者の鈴木政吉さんは1859年に、今の名古屋市の東区から中区あたりで生まれた、
まだ明治になる前のことだ、、
実家は三味線づくりを家業としていて、政吉さんも三味線職人へ。
しかし、明治になって西洋化が進むなかで三味線が売れなくなって、
友人が持っていたバイオリンを初めて見て、これだ!と思ったんだね(たぶんね)、
そのバイオリンを一夜だけ借りて、見よう見まねでバイオリンをつくりはじめて、1888年に第1号が完成、

鈴木政吉さんの第1号バイオリン

鈴木政吉さんが初めてつくったバイオリンの第1号

三味線職人だったからこそ、ちょっと見ただけでバイオリンをつくることができたんだろうけれども、
でも、そうはいっても、材料もつくり方も、その構造もよくわからないなかで、
よくできたものだと感心する、

このときに政吉さんがつくった第1号のバイオリンが現存していて、
中川区の工場の時には、谷口工場長が、ほい、という感じで見せてくれたのだが、
今回はちゃんと専用の箱に入って大切にされていた、、

バイオリンづくりに邁進していった政吉さんは、
生産を拡大するとともに、バイオリンの品質向上へも熱心に取り組んでいった、、
バイオリン頭部の自動削り機(渦取機)、甲削機(表板と裏板に丸みを持たせる加工)の発明、、
作業場から近代式工場へと脱皮、
パリ万国博で政吉のバイオリンが銅賞を受賞、
これらのことをきっかけにして、バイオリンの大量生産を進めていったのだった、、

その後、1914年に欧州大戦が勃発し、世界のバイオリン市場を独占していたドイツの生産が絶たれると、
世界各地からの発注が集まるようになって、
鈴木バイオリン製造は最盛期を迎えた、

当時従業員は1000名を越え、毎日500本のバイオリン、1000本以上の弓を生産し、
輸出のみで年間に10万本のバイオリン、 50万本の弓をつくったという、
さらに、4系列・27品種のバイオリンのほか、ビオラ、マンドリン、ギターも製造していたようだ、、

アインシュタインの直筆手紙

アインシュタイン博士からの直筆手紙。2022年に、テレビ愛知の「開運!なんでも鑑定団」に出品されて1500万円の鑑定額が付いたという

そのようにバイオリンを量産をする一方で、よりよい音を求めて、品質には妥協しなかった、、
天才物理学者のアインシュタイン博士も、そんな鈴木バイオリンのファンの一人で、
あんたのバイオリン素晴らしいよ、という内容の、政吉さんへあてた手紙が残されている、、

昭和の時代になってからの鈴木バイオリン製造は、それまでのようにバイオリンが売れなくなって、
いろいろ紆余局席を繰り返していくことになるんだけれども、
1935年、まだ日中戦争がはじまる前、
名古屋の中心部にあった工場とは別に、愛知県大府市に分工場をつくっている、
当時、実質的な経営を行っていた政吉さんの長男梅雄さんが、
「楽器生産の村」を大府につくりたいという夢を実現するためのものだったようだ、、

そして、政吉さんは戦争が終わる前年の1944年に、分工場のあった大府で亡くなっている、
最後までバイオリンづくりの研究を続けていたというから、根っからの職人だったのかもしれないなあ、、、
でも、大府の分工場は、政吉さんが亡くなった同じ年に、
三菱重工業名古屋航空機製作所に買収されて、なくなってしまった、、、

ぼくがよく見学に訪れていた名古屋市中川区の工場は、戦後の1946年に、
今の東区東桜2丁目にあった本社工場が移転してきたものだった、、
雰囲気のある工場で、こんなところで働くことができたら幸せかもな、とよく思ったものだ、

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