名古屋陶磁器会館物語 なにかに没頭したいなあ、、、

ぼくが勤めていた業界新聞は
60代の会長のヨシッチと40代後半の社長のアオチャン、
同じく40代後半の女性事務員のガジヤン、
それとぼくという4人で構成されていて、
ヨシッチは広告営業担当、
アオチャンとぼくが編集担当、
カジヤンはいろいろな事務仕事をしていた。

今でも憶えているのは、
ぼくが最初に取材をしたのは
瀬戸市で器をつくっていたクラフト作家のオレオレさんだった。
内容はあまり記憶にないけれども、
器づくりと瀬戸市の将来について話を聞いたような気がする。
現在、瀬戸市は、陶器の産業的な視点で言えば、
壊滅的な状況になっているが、
あの頃はまだ、いろいろな可能性があると考えられていた。

それと、月に1、2回くらい、
ぼくは、ヨシッチとふたりで瀬戸市や多治見市や土岐市を車で回って
食器やタイルをつくっているメーカーを訪ね、
最近景気はどうですか、という話をしながら、
新聞への広告掲載をお願いすることをやっていた、
まだまだ陶器の産業も余裕があったのか、
現状を聞きながら、最後には広告を出してくれるところは多かった、

ヨシッチは目がぎょろっとしていて、
色黒で、一見紳士風。
長年、名古屋において雑誌や新聞を発行してきた人物だ、
内容は薄っぺらだけれども、
そんなことは意に介さずに、
俺は何でも知っているという態度で
適当に会話をするヨシッチには少々うんざりしながら、
それでも、最後には広告をしっかりとる厚かましさは、
やはり長年の経験のなせる技だと感心した、
それに、ヨシッチとともに産地を回るのは、
うんざりすることも多かったが、
各メーカーの現状を知るにはかなり役立った、

一日、ヨシッチとともに陶器の産地をまわって、
おじさんたちの仕事の話を聞いたあと、
名古屋陶磁器会館に戻って、
ファッションデザイナーのグリグリさんの事務所に呼ばれて
同年代の女性と話をしたり、
あるいは、バタッチ、ヤマッチと一緒に飲みに行ったりすると、
なんか落差が大きいなあ、と
自分が今どんな状況に置かれているのかが
わからなくなった、、

それとともに、
ぼくも、何かに没頭したい
という気持ちが高まっていくのだった、、、

そんなときだ、
仕事の関係でつきあいのあった、
木材の業界新聞のモクモクさんから、
今度、名古屋デザイン博というのが
堀川沿いの白鳥という場所で開催されるんだけど、
会場内にかつての貯木場を象徴する場所をつくることになった、
その場所で、なんか企画できませんか、
と相談があったのだ、

ああ、なんかおもしろそうだなあと思ったぼくは、
その企画を持って、
多治見市へと出かけて行ったのだった、、、
時代は昭和から平成へと変わろうとしていた、



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