一昨年の11月に母親が亡くなり、すでに1年以上も経った、、、
今思うと、おもしろい母親だったなあ、、、
昭和の初め、名古屋の円頓寺近くの桐箱をつくる職人の家で生まれ育った母親は、
すくすくと育ったはずである、、、
小さい頃は、市電に乗って名古屋城の外堀にあった公園に遊びに行くのが、
楽しかったなあと話していた、、、
昭和初期、名古屋市内には市電が市内を縦横無尽に走っていた、、
その後、戦争の時代へと突入していくのだけれども、
妹を背負って焼夷弾を避けながら逃げ回った、らしい、
すぐ近くに焼夷弾が落ちて、そのときは近くにいた人達は即死だったけれども、
自分たちはわずかな差で助かった、と、、、
終戦間近、名古屋城が燃えるのも見ている、、
戦後はたぶん縫製の専門学校に通ったのちに、通産局、いまの経済産業局へ勤めていた、、、
まわりは東大とか京大のエリートたちばかりだったらしいけれども、
どんな仕事をしていたのだろうか、、
お茶くみとか細かな事務作業なのかな、、
仕事を抜け出して映画を見に行ったりしていたといっていたから、
まあ、のんびりとした時代だったんだろう、、、
そういえば、ぼくが小学生の頃、通産局にアルバイトへ行っていたときがあった、、、
結婚を機に退職したんだけれども、
昔の仕事仲間から忙しいから手伝てくれないかと言われたんだろう、きっと、、
でも、基本は専業主婦だった、
どんな思いで暮らしていたのかよくわからないけれども、
ぼくが保育園、小学生低学年のころは、
なぜかわからないけれども、今は無きデパート丸栄によく連れていかれた、、
何しに行っていたのか、ほんとよくわからない、、
屋上にあった遊園地で遊んだり、
広小路沿いにあった洋食店「タチソウ」でお子様ランチなんかを食べたりした記憶がある、
たんにお出かけをしたかっただけかもしれない、、、
中学、高校はずっと弁当だった、、
毎日、弁当づくりは大変だったはずである、、
ハンバーグとかエビフライの味を懐かしく思い出す、、
はじめて一人暮らしをした大学時代には、
ちょくちょく段ボールで衣類とか食品なんかを送ってきたなあ、、、
社会人になってからもいろいろ心配をかけたはずだけれども、
母親って、いつの時代も、ちょっと鬱陶しい存在で、
それでいて、いつも心のどこかにいるような、
なんか不思議な存在なんだよな、息子にとって、、、
年を取ってからも母親は母親で、、
あまりその関係に変化はなかったけれども、、、
ぼくが何かをしてあげると、
たとえばドライブに連れて行ってあげたり、
鬼まんじゅうを買ってきてあげたりすると、
「ありがとう」と言って、、
それを聞くたびに、なんかすごいと思っていた、、、
息子に対して「ありがとう」と言うのって、
なんかすごいと思っちゃったんだよなあ、、、
まあ、普通のことなのかもしれないけれども、
なんなんだろう、、、やっぱり、なんかすごいと思った、、、
そのとき、
ぼくは、これまであまり「ありがとう」と言ってこなかったなあと気づいて、
人生において「ありがとう」を言う回数は、、、、
たとえば1万回くらいは最低言っておかないといけないという回数が決まっているような気がして、
だから、ぼくはこれからとにかく「ありがとう」をたくさん言っておかないとおいつかないな、と愕然とした、、、
以降、「ありがとう」を積極的に言うように意識している、、、
もう残り少ない人生だから、、、
ここまで読んでくれて、ありがとう、
今日はちょっと寒いですね、ありがとう、
また明日、ありがとう、、
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