インスタとかフェイスブックとか、
そういうSNSと呼ばれるものは言葉なんじゃないかと気がついた、、
言葉は人と人のコミュニケーションの道具であり、表現のための道具である、、
その人の思いというものが言葉に込められていると感じる場合もある、、
連絡事項を伝えるのも言葉であり、むちゃくちゃ好きなんだよ、と伝えるのも言葉である、、
連絡事項も、むちゃくちゃ好きだよという思いも、
客観的に言葉にすれば伝わるかというと、そうでもない場合が多い、
好きだよ、と言えば、
相手に自分の好きだという気持ちが伝わるかというと、そう簡単には伝わらないのである、、、
連絡の事項の場合は、もう少し伝わりやすいかもしれない、
そこに心が入り込む隙間はかなり少ないから、、
でも、10時にハチ公前、と伝えたとして、
一人は東京・渋谷のハチ公前と思って、
もう一人は北海道・富良野のハチ公の銅像前と思うかもしれない、
そんなに極端じゃないにしても、微妙な違いはなかなか伝えるのが難しいのだった、、
だから、どうやって伝えればいいのか、
どんな言葉を選んで使えばいいのか、、
考えたり、工夫したり、するわけで、、
SNSにおいても、どんな写真を使えばいいのか、
どんな言葉でつぶやけばいいのか、
それによってどんな反響があるのか、
それを考えやっている人は多いと思う、、
良い見方をすれば、それは自分の心の動きをうまく伝えるための工夫であり、、、
悪い見方をすれば、実体のない仮面に陥りやすくなるというか、、
こういう点も言葉と一緒だと思う、
心の動きを背景とした言葉は、その波動が響いてくるけど、、
心の動きを伴わない言葉の、なんと空虚なことか、、
もう一つ一緒だと思うのは、言葉とSNSは両方とも制限を強いるものであるという点で、、
日本語を使っている限り、日本の文化の制限を受けるのは当たり前で、、
SNSも一企業がやっているプラットフォームを利用しているわけで、
こっちも制限があるのは当たり前なのであった、、
意識している、していないに関わらず、、、
日本文化の外の世界を日本語で伝えることはできないし、
フェイスブックの外の世界をフェイスブックを使って伝えることはできない、、
当たり前なんだけど、、
ま、要するに、そういう伝わらなさ、制限のなかで、
ぼくらは日本語で何かを伝えようとしているし、
同じように、伝わらなさ、制限のなかで、
インスタやフェイスブックで何かを伝えようとしている、、、
その方法しか、ぼくらはできないんだなと、
ぼんやりと思ったのであった、、、
SNSも言葉も、だからこそ、伝わらない絶望があると同時に、
伝わるんじゃないかという希望と可能性を、、ぼくらは感じているんだなあ、、、
(画像はAI)
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