倉井由紀子さんの仕事    ハセガワトモコ

チェンマイに長期滞在

最初の3ヶ月はタイ語を修得するため語学学校に行きました。
語学を学びながらも、授業後には片道1時間バスに揺られてジョムトン村に通い、イサーン地方からお嫁に来た女性から横絣織(よこかすりおり)を習いました。
開け放しの窓から強風吹きこむ普通バスに揺られて何日も通ったそうです。

またある時はカレン族という民族の地機織(じばたおり)を習いました。
地機織りというのは腰にベルトを回して織る、一番原始的な織り方です。
日本では結城紬が有名です。
発祥はアンデスといわれています。

語学学校の長期休みには、ラオスのビエンチャンで縦紋綜絖(たてもんそうこう)を使った横紋(よこもん)を、習いました。
これこそがどうしてもわからなかった、そして一番知りたいと思った織りでした。

そこはペンマイ工房といって、英語の話せる姉妹がいて、母親を中心に織り子を雇って工房を経営していました。倉井さんが習った頃は、外部からの生徒を受け始めたばかりの頃でした。この時は1ヶ月ゲストハウスに滞在しました。
織りを教わるやり方は、スウェーデンの工芸学校とは全然違いました。
それまで倉井さんは、先生から教わるやり方しか知りませんでした。
タイでは織り子の隣にただ座り続け、見て習うやり方でした。
彼らは人に教えた経験もなければ人から教わった経験もなかったからです。
6,7歳の頃から親に習い、教わった織り方だけを一途に守り継いでいるのです。
教えた経験がない人から習うのは実にもどかしく成果が見えない焦りがありました。

その一方でいろいろな地域や民族と出会ううち、それぞれの織りの特徴と文化の違いに興味が湧いてきました。
織りの技法は民族ごと、地域ごとにまったく違いました。
まるで大学の時専攻した社会学の現地調査のようでした。
パトリシアからは冗談混じりに「本を出せ」と言われました。

いったん帰国し再びタイへ渡ります。
タイ語の学校で知り合ったカナダ人から「藍染のピージュウという人に会うといい」と勧められ、会いに行くことにしたのです。

藍染のピ―(ピ=お姉さん)ジュウはチェンマイからはるかに遠いサコンナコンのバーンナーディという村にいました。
チェンマイから夜行バスに乗って10~12時間、朝ウドンタニという街についてバスを乗り継ぎさらに3~4時間。
ようやくたどり着いたその村はまるで桃源郷のような村だったそうです。
赤土の道の横に小川が流れ、カウベルをつけた牛たちが夕方ゆったり家路につくのでした。

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(1)と(2)は、1999年 初めて訪れたバーンナーディ村の様子(倉井さんのアルバムより抜粋)
(1)は、滞在させてもらったピージュウの家の前に立つ次女のカミン(カミンはタイ語でウコンという意味)
(2)は、赤土の道が小川に沿ってずっと続いている典型的なバーンナーディ村の風景

ピージュウはここで生まれて育ち、チェンマイ大学を卒業し、バンコクの都会暮らしを経て故郷に戻りました。
当時のタイは経済的に急成長していました。
都会を中心にモダンなデザイン、化学染料で染めた布、農薬を使った野菜が増え始めていました。
ピージュウはオーガニックにこだわり、村人を組織して村で染めた藍染の糸を村人に織らせ、それを自分がデザインした素朴な服に加工して世に送り出していました。

倉井さんはピージュウの家に2週間泊めてもらい、織り子から藍染めと横絣織を習いました。
テレビがない長い夜には9歳と8歳になるピージュウの娘たちに日本語を教えたりなどしたそうです。
シャワーはぬるま湯のような水しか出ませんでしたが、頭は織りのことでいっぱいで気になりませんでした。
村のみんなと一緒に泥に入って田植えもしたそうです。

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1999年 初めて訪れたバーンナーディ村の様子(倉井さんのアルバムより抜粋)
(1)は、バーンナーディ村で藍甕の世話を習う倉井さん
(2)は、藍染をしている倉井さん
(3)は、染めた糸を使って織りを習う倉井さん

(4)は、織っている途中の横絣の布

タイの田舎の人と話しているとホッとしました。
受け入れてもらえるようなつながったような気持ちになりました。
入口は織物でしたが、織っている人たち、そこにいる人々が心底好きになりました。
この感覚はスウェーデンでは感じませんでした。

ある時、田んぼの真ん中の東屋のような小屋で、ピージュウと二人で人生や生き方について話し合いました。
それまでの倉井さんは織りが習いたくて突き進んでいましたが、ピージュウに織ることの先にある仕事のやり方、生き方を教えてもらった気がしました。
それは「産地の人と一緒になって作れば、自分のやりたいことを表現できる」というスタイルでした。
つたないタイ語のはずなのに、なぜか理解できました。
この人のことをもっと知りたい。
もっとタイにかかわりのある仕事がしたい。
もし、またタイに戻ってきたら、見つけた道を進んでみたいと思いました。

ピージュウとお母さんと倉井さん(1999年4月)

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