毎日がハイクデイ その10

 

大野泰雄さんの毎日がハイクデイが10回目を迎えました。毎回、なんとなく胸がキョンとなる文章と色んな感情が生まれる俳句が、ぼく自身、楽しみでなりません。今回は書を新しい方に書いてもらいました。
松本源仙さんです。源仙さんに自己紹介をお願いしました。「小学校1年生の頃に書道塾に入った事が字に触れていくきっかけになりました。大人になり仕事で挨拶状を書くことがあり筆ペンで普通に書くと硬い文になるので、相田みつを氏のカレンダーの書を真似て書いて送ると「素敵な手紙をありがとう」と直接伝えに来て頂いたことが凄く嬉しく、字を書き続けている理由です。書を書いている時はワクワクしています。自分の字がたくさんの人の目にとまり書から想いが伝わるといいなと思います」
もう一句のほうは、謎の書道女子のmayuzoさんです。今回はちょと趣向を凝らしてもらいました。(小出)

「これからの生き方が、これまでの人生を決める。」とは、一見逆説的だが、真実だと思う。
 私の人生に最初の大きな転機が訪れたのは、所謂十五の春、高校受験の失敗に寄るものだった。私にとっては、これが最初の挫折体験となった。勿論、合格発表当日の事は、今でも鮮明に覚えている。その日は受験した友人二人と一緒に、発表会場である高校へ向かった。ところが、体育館の壁に張り出された受験番号に、私の番号だけがすっぽりと抜け落ちているではないか。何度も何度も確かめるように見回ったが、無い。そんなはずはない。担任から進められた高校よりワンランク落とした高校だ。絶対に落ちる訳がない。呆然と立ち尽くす私の周りの風景が、やがてぐるぐると回り始める。周囲の騒めきも耳から遠のいてゆく。キーンという耳鳴りと同時に目の前が闇に塞がれ、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。石のように屈み込む私を、周りの者たちはどんな目で見ていただろうか。或いは、世界から取り残されたひとりの子どもの事など、歓喜に沸く者たちの目には映らなかったのかも知れない。
 母の待つ家への帰り道、すれ違う人たちに不合格を悟られまいと、精一杯に作る笑顔。泣きたくても泣けない。私の中で、何かが変わり始めたのだ。

 懐かしいあの唄が聞こえてきた。♪ロバのおじさんチンカラリンーーチンカラリンロン、やってくる。思わずアトリエを飛び出すと、紅白模様のライトバンが見えた。「嗚呼、やっぱりロバじゃない。」と思いながらも大きく手を振ると、少しスピードを上げて近づいてきた。車が家の前に止まると、絵を描いていた子どもたちも一斉にアトリエから飛び出してきた。
 ロバのパンは、昭和三十年代の当時の子どもたちには、少し贅沢なお菓子だった。もっちりとした食感と具のチョコレートやレーズン、ジャムなどが、とてもハイカラに思えたものだ。学校給食のパサパサのパンに比べようもなく高級な味わいだった。パン食は、戦後アメリカの日本に対する文化政策の一環として進められた。大量の小麦の輸出先としての敗戦国日本。ロバのパンもその一役を担ってきたと言ってしまえば身も蓋もないが、余った家畜飼料の脱脂粉乳を飲まされて来た口には、少し複雑な思いが絡む。
 買ってやったロバのパンを、アトリエの子どもたちは喜んで食べていたが、私には美味いとも、不味いとも感じなかった。あんなに美味しかったロバのパンなのに⋯⋯。でも時々、無性に食べたくなるのは何故だろう。

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