毎日がハイクデイ その8

今回の大野さんの俳句には、新たな謎の美女二人に字を書いてもらった。この二人は、ぼくの仕事の関係者で、いつもぼくが怒られる立場にある。なぜか謎の美女ばかりなんだけれども、美女はいつも謎だらけだからね。こんなふうにいろんな人に字を書いてもらっていると、その微妙な違いがおもしろいなあと感じるようになった。書いてくれとお願いをすると、それなりにちゃんと書こうという意識は生まれるもので、その作為がおもしろい。いろんな表現活動は作為との戦いだと思うけれども、今回の二人も、やっぱりちゃんと作為と戦っているんだよなあ。大野さんの俳句と散文は相変わらずのおもしろさだ。作為と無作為の狭間を歩いているような感じがたまらない。(小出)

 古希から始めた山歩きも今年で五年目。もっぱら地元の低山を徘徊している。山へは車を使わずとも、自宅から登山口まで歩いて行ける距離。お手頃な里山がいくつもあって嬉しい。当時はコロナ禍の最中にあり、人との接触を出来るだけ避けられる外遊びとして始めたのだが、意外にも山は人で溢れていた。考えることは、皆同じなのだ。しかし、だからと言って今更山歩きを止めることなぞ出来ない。既に山の魅力に取り憑かれてしまっていた。何故山なのか――そこに山があるからさと、登山家を気取ってみたくもなるが、正直に言えば山頂で食べるにぎり飯とカップラーメン。これが旨いのだ。ドリップコーヒーの味も格別のものとなる。時には渋く、山の天辺での野点なんてのも。そんなゆるゆるな山歩きだけれど、木漏れ日の山道を歩いていると、ふとこれが天国への道かと思えたりして、このまま山で死ぬのも悪くないなと思うこともある。

 我が家には四匹の猫がいる。内の二匹は終日引きこもりの家猫。他の二匹の内の一匹は、夜に家を出たっきり、何処で何をやっているのやら、毎日朝帰りの放蕩者。もう一匹は外猫だが、野良ではなく、年中家の敷地内をウロウロしている。四匹はそれぞれ親子、姉妹、孫の関係一族で、彼らは彼らのヒエラルキーを形成している。面白いのは、その頂点に立つのは何んと敷地内をウロついている老婆猫。よろよろしながらも外敵に対する眼光は鋭い。次なるは、情報収集役の放蕩娘猫。三、四番目に家猫の二匹の順となっている。その家猫にも更に上下関係があり、歳下の雌猫が図体の大きな雄猫の上に君臨する。意外にも猫社会は縦社会なのだ。この構図は人間社会にも当てはまりそうだが、猫が偉いのは、それを文句なく受け入れて生きていると言うことだ。争い事ばかりの自由社会より、平和な縦社会の方が、人間にとっても、ずっと暮らし易いのではないかと、時々猫を見ていて思う。

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