修復家・加藤豊子の挑戦

これもイギリス時代の豊子さんである、刀剣の修復もしていたのだろうか、

不安の中での作品づくり

――ちなみに、豊子さんがロンドンで学んでいた時期は、何年から何年になるんですか、、

加藤 1996年の夏に行って、1年間のファンデーションコースを経て、セントラル・セント・マーチンズが97年から2000年、2000年から2002年が修復のカレッジです、、

――世紀末を挟んで6年ほどですね、、

松永 あの時代のロンドンがどうだったのか、、ロックが好き、音楽が好きだったりすると、70年代、80年代前半まではもう失業者がめちゃくちゃ多くて、パンクが出た頃は街もひどい状態で、みたいなのがあったりとか、80年代になるとその辺がどうだったか、、、それで、2000年を挟むとアメリカのテロがあったり、あと西洋人って世紀末思想が結構あったりして、ぼくらが考える以上になんか不穏な空気もあったりしたのかなって、今思ったんですけど、、ロンドンの暮らしってどうでした?

加藤 ロンドンの暮らしは、、、狭い世界で生きてたので、あれなんですけど、、

松永 例えば、音楽好きだと、90年代にはブラーとか出てきたり、オアシスとか、あの辺が出てきて、ファットボーイ・スリムとか、90年代後半になってくると、テクノとか、クラブ系とかがバッと出てきたりとか、、

加藤 いろんなことが賑やかだったような気がします、、特に学校が、コベント・ガーデンの近くだったんで、シアターとかが多くて、、すぐ裏の通りに、有名なロニー・スコッツっていうジャズクラブがあったり、、有名なレストランもいろいろあって、とにかく賑やかで、、

――音楽とかファッションとか、カルチャーの中心地みたいなところですね、、

加藤 そうですね、だいたいセントラル・セント・マーチンズがファッションで有名で、アレキサンダー・マックイーンとか、ヴィヴィアン・ウエストウッドとか、あの辺の有名なアーティストが出ているところなので、、

――豊子さんは、遊びに行ったりとか、しなかったんですか、

加藤 遊びはしてないです、、クラブとかは大嫌いだったから行かなかったし、パブに行くくらいでしょうか、、わたしはギネスが好きだったんで、遊ぶよりもエールビールの方がいい、、遊びたい感覚がなかったんで、、美術館、ギャラリーを回ったりか、、とにかく、エッセイを書かなきゃとか、作品どうしようとか、そんなことばっかり考えていて、、
今より、その当時のロンドンは暮らしやすいというか、、今はもっと難しいと思います、、

イギリス時代に大きな壺の修復に取り組む豊子さん

――人種差別的なこともなく?

加藤 人種差別も実はあって、でも、日本人は、その中でも割とツンツンされない感じ、、白人の賢い人たちは、やっぱり見下した感じでしたが、庶民レベルだとそこまでじゃなくて、、
その当時は、日本が経済的にも強くて、ちょっとリスペクトというか、日本人は礼儀正しくて、、支払いもきちっとしているから、、

――借りてたのは、どんな家だったんですか?

加藤 普通の民家の一室です、ウィリアム・モリスがいろいろ活動してた頃にできたような長屋みたいなタイプの家で、ちょうどわたしの母と同い年のお母さんがいて、息子さんが2人いるけど、マンチェスターとか別のところに住んでるっていう状態で、わたしはその部屋を借りてました、、

――すごく雰囲気が良さそう、、、

加藤 良かったです、その方がすごく素敵な方で、、、ペニーさんっていう方で、今はだいぶお年なんですけど、すごく優しい方で、いろんなことを教えてくれてたんですよ、、、、アートが大好きで、、

――食事はどうしてたんですか?

加藤 食事は自分でつくってました、、キッチンを借りて、スープをたくさんつくって、2日連続で食べるとか、そんなことをやってました、、

――30歳前半の頃ですね、

加藤 そう、イタリア人の女の子と知り合って、大体同じぐらいの年代だったし、その人とは、ファンデーションコースのときに会って、話しかけてきてくれて、、イタリア人ですごい綺麗なんですよ、、その人とは今でもたまに WhatsApp で会話をしますけど、、

松永 羨ましいです、、当然、トラブルとか嫌なこともあったかもしれないけど、、ちゃんと馴染んで、長いことやれてた時点で、すげえ羨ましいなと、経験として、、

加藤 でも、いつも不安でしたけどね、本当にわたしにできるのかなとか、まだ修復を学んでいないんだけどとか、アートカレッジの時は、作品つくるのは楽しいんだけど、そっちの不安はずっとつきまとってて、、

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