大野さんの「毎日のハイクデイ」が始まって、やっぱりおもしろい文は、独特のリズムとか間が大切なんだなあと改めて感じた。俳句のおもしろさ、ユーモアもちょっとだけ、わかったような気がする。それと、書の美しさも、ぼくにとっては新たな発見だった。ぼくはいつも、大野さんの俳句と文を読みながら、一人、むふふとなっている。いやあ、おもしろいなあ、と。今回も楽しい状況を思い浮かべながら味わうと、一層楽しい。
今回は、最初の書がお馴染みのmayuzoさんで、次がパソコンの書。AIが書を書くのはなかなか難しいようで、これはフォントである。やっぱり、書は人が書かないととは思うけれど、AIの可能性も感じられると思う。(小出)
「人間は一本の管である。」と言った人がいるが、なるほどと思う。人体をこれほどクールに、且つ端的に表現した言葉を他に知らない。深く同意するのは、それを実感した経験が私にもあるからだ。五十代の終わりに受けた胃ガンの全摘出手術で、私は胃袋を失った。飲み込んだ食べ物の塊りが、食道から腸へストンと落ちてゆく感触を味わうようになった。今までとは明らかに違う。私の内臓は通り道なんだと。その入口と出口である口と肛門を繋いでいるのが、私なんだと。
九竅(きゅうきょう)とは、人間の体にある九つの穴のことを言う。どの穴も無くてはならぬが、取り分け重要なのが、口と肛門だ。それを繋ぐ管さえ有れば、人間は生きてゆける。
以来私は、「一本の考える葦」であるよりも、「一本の感じる管」でありたいと思うようになった。
その先生の名前は忘れてしまったけれど、先生の細くて白い指と手の温もりは、今も忘れない。
その年の春、先生は新卒の女性教師として東京から岐阜の我が中学校にやって来た。黒い細縁メガネをかけた小柄な可愛らしい先生だった。都会の香りを纏った先生は、少しツンとしているように見えた。軽やかな東京弁と洗練された服装や仕草に田舎の坊主どもは、完全にノックアウト。憧れの先生となった。ある日、先生から数学の答案用紙を受け取った時のことだ。ひび割れて赤く血の滲んだ私の手を両手に取り、「ああ、かわいそう。」と言って、やさしく摩ってくれたのだ。背中に男どもの嫉妬のからんだ視線を感じながらも、私はもう嬉しくて嬉しくて、恥ずかしさにも増して先生の手の平の温もりをじっと感じ取っていた。それは母親の手の感触とは明らかに違う、やわらかな甘美な肌触り。どくんどくんと高鳴る心臓の音も脳裏に残っている。
その後、苦手だった数学の成績が急上昇したのは言うまでもない。
🔸2025年2月7日から9日の3日間。名古屋市中区の中区役所1階の栄サンシティギャラリーで、mayuzoさんも出品する「春墨會小品書展ー扇子を書くー」が開催されます。また後程詳しく紹介しますが、興味のある方は、ぜひ、ご覧になってください。書道女子のmayuzoさんと話せるチャンスです。